xpmd’s blog

ダラダラと思ったことを書いています。

早速やってみよう

私は思い付いた。
毎日Twitterのタイムラインを見ているので、そこで気になったツイートを引用して、そこから話を膨らませようと。毎日はやりませんが。


今日気になったのはこちら。

"英語必死に学習している日本の学生に日本人のおっさんが「英語だけ出来てもダメだ」というのはご尤もなのだが、日本生まれの日本育ちの場合、それ以前に英語できないと「それを使って何をするか」を話す世界の土俵にも上がれていないので、正しくは「英語やれ。話はそれからだ」だと思う"

https://twitter.com/Manchee902/status/1295596105833435141?s=19


なるほど。
ここに登場する「日本人のおっさん」が英語だけでなくて何が出来ることを期待しているかはここでは不明なので、この呟きに対して真っ向から向き合うことはしない。

英語ができる・できないということについて私が感じたことを話そう。

私は必死にではないが、まあまあ英語を学習してきた。自分が知っているニュースの英語の記事は読める。好きな海外のアーティストがSNSで英語で発信している内容もわかる。
しかし、大学生時代は英語の論文が読めなくて苦労した。もし自分が英語のネイティブだったら、これはスラスラ読めて、その論文を踏まえて自分の論文を書くことができるのに、私の目の前にある壁は英語だった。私は国際政治を勉強していたので、良い英語の論文は沢山あった。しかしほとんど手を付けなかった。読むのに時間がかかるからだ。

大学3年生のとき、自分が研究している分野の英語の本を1冊読んで内容をまとめて発表しなさい、という課題がゼミで出た。夏休みにその課題は出され、夏休み中に行うゼミ合宿で発表することが決まっていた。

これは大変だった。なんとなく書かれていることはわかるけど、ぼんやりとしか理解ができない。読みながらメモを取っていったけど、終わる気配がない。

私は英語の綺麗な文章について、一つ知っている知識があった。それは、最初と最後は同じことを言っている、ということだった。これは英語のWriting(書く)の授業で習った。最初と最後は同じ事を書く、そして間はそれを説明するのだと。私が課題とした素晴らしい本は先生が勧めてくれたものであるし、この理論に間違いなく乗っ取っている。確信した私は本の最初と最後だけ読んだ。そして雑なレジュメを作って発表した。色々質問されて困ったけど、大した問題は起きなかった。

もし英語ができたなら、私はきちんとその本を読んで自分の考えをぶつけながらレジュメを作っただろう。しかし私はそこまで英語ができない。それを論じる「世界の土俵」にも立てなかった。

だから英語が出来るに越したことはないと思う。出来ないと話にならない。


だからみんな英語を頑張ろうね。
世界が広がるよ。